フィリピン1/2
日比交流の歴史を訪ねてと題したフィリピン・スタデイツアーに参加。企画はフィリピンを含め3カ国に交流支援.するNGO国際エンゼル協会.この旅の主目的は日比交流の跡をたずね歴史上の関わりを学ぶこと、現地でチャリティバザーを行うこと、日本から運んだ古着、婦人靴やアクセサリー類を販売、収益金を比日友交協会に寄付現地の高校生、大学生への奨学資金に当てる、又現地奨学生、里子たちと交流など.                            
バギオ
マニラから250km北に位置したバギオは1500mの高地にあることから避暑地にもなっている、人口約30万人.街中心部には百貨店、スーパー、青空市場など賑わっている。六つの大学、陸軍士官学校、米国統治時代の米軍本部建物、公園の他山頂には展望台がある、バギオは戦前戦後を通じ日本人と歴史的関わりの深い所である.1930年初期に日本人が辛苦を味わい多くの犠牲者を出しながら完成させた32kmのケノン道路、今も人や物資を運ぶ大動脈として存在している、戦後は現地に住む日本人の恩人と言えるシスター海野の活躍である、貧しく隠れるように住んでいた日本人一人一人の住居を探し当て何も恐れることは無いと勇気を鼓舞し陽の当たる場所に導き出し、又その家族らの願いから子供たちに良い教育の場につかせようと尽力した。シスター海野は同時に比日友交協会を設立し日系人のみならずフィリピン人子弟の教育にも援助の手を差しのべる基礎を築いた。彼女が眠る墓がバギオの街を見下ろす墓地に建っている.                    

比日友交協会のある建物「アボン」,チャリティバザー及び奨学生との交流を行った.この建物は滞在日本人の憩いの場所である.                    

アボンから付近の眺め.
                    


曲がりくねったケノン道路は1933年.米国統治時代日本人移民により難工事を克服3年間の歳月をかけて完成させた.当時マラリア、粗末な食料事情などで1500人の内約500人が亡くなった.道路の名前は指揮した米人ケノン大佐の名前からきている.

この展望台からケノン道路一帯を眺めることができる.




上記展台からの眺め、暑くない高原であることから野菜が栽培されていて収穫したものはマニラへも運ばれている.

元米軍の指揮建屋、現在は公園になっている.


元米軍指揮所の入り口門.


ここは陸軍士官学校施設、にほん人観光客にもパスポートを見せれば構内に入ることが許される.

比日文化交流協会から奨学金を受け高校にかよう生徒たちと
面接.

同左、殆どの女子は将来看護師になることを希望している.


一部奨学生と日本人訪問団との記念写真.


奨学生とNPO国際エンゼル協会代表理事東村さん(後列右から4人目)

山の中腹に建つ奨学生の家(右下)を訪問した.この家へ行くには人一人が通れる山道を一端下り小川の橋を渡り再び登らねばならない.


家はこの部屋と台所の二部屋、家族9名みんながこの部屋で寝る、中央の二人が奨学生の兄姉、この日両親子供たちが歓迎してくれたが見栄や飾り気は全く無い、兄のギターに合わせ全員でカントリーロードなどを歌いしばらく交流楽しい一時となった.

アボンでの里子たちとの交流会、フィリピン女子生徒が民族舞りを披露した.

琴を運んできた女性は美しい日本の曲を演奏、初めて聞く琴の旋律にフィリピンの人たちは聴き入った.

7種類のマジックショウを披露.

訪問日本人によるオテモやんには会場が盛り上がった.

上記出し物が終わった後新聞紙で兜作りや日ほんから持参の材料で紙トンボ作りを教える、みんな好奇心旺盛楽しそうに制作した.

同左.紙トンボとブンブンごまの材料を持参したが時間の都合でブンブンごまは交流会席上では出きず終了後比日交流会に材料を残しスタッフのみに作り方を教え後日みんなに指導してもらうこととした.